ZOO YORK

今日は戸籍をとりに新宿へ。
実は私、東京新宿生まれ、群馬前橋育ち。
五歳の時に越しました。
久しぶりの市谷台町。散歩ついでに昔のうちと通っていた幼稚園に行きました。5歳の時の記憶を頼りにいりくねった小道を歩き続けたのですが、不思議なことに不安な気持ちにはなりませんでした。この町からなんとない優しさを感じました。
「元気かい、こんなにおっきくなったのかい。」
そんなことを昔、八百屋のおじさんから言われていたっけ。
「おじさんこそ、元気かな?」
コンクリートの狭間に咲くハルジオン。よく摘んでお姫様ごっこなんかしたものです。でも、私はターボレンジャーごっこのほうが好きだったな。だって、なんでもすることができたから。
旧家は、
旧家はもうなくなってビルになっていました。でも、塀だけは昔のままです。この塀を蟷螂の子供が歩いていたときの心地よさ。この塀を登る時に手についた白い粉の張り付くような白さ。この塀に水鉄砲で水をかけたときのちょっとした達成感。塀の含む色々な思い出。近くのお稲荷屋さんの酢の匂いがそんな思い出にリアリティーを与えます。
幼稚園は、
幼稚園は数年前に閉園したようです。時代に置き去りにされた無造作な幼稚園が残っていました。庭には一匹の猫が。ところどころに生えた雑草をカーッペット代わりにしている。その上で、けだるそうに春の午後を追いかけている。春の午後・・木の陰に隠れたり、雲に成りすましてみたり、幼稚園のガラスを濁してみたり。猫は追いかけるだけで捕まえようとはしない。猫はそれで満足しているし、春の午後もそれなりに楽しんでいるから。そうして今の人が失った空間には、多くの気持ちが集っている。私の思い出も春の午後の中で生きずいているのか。そうだとよい。


思い出の居座っている所は、過去なのでしょうか。今なのでしょか。取り出そうとするとつっかえてしまうのは何故でしょうか。そこに何かしらの感情を必要とするのは何故でしょうか。